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slip into chaos - 日々録(2007年3月)

2007年3月1日(木曜日)

先日、新木場にある第五福竜丸展示館に行ってきた。

きっかけになったのは「ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸」(Amazonビーケーワン)という絵本。リトアニア生まれでアメリカに移民した画家であるベン・シャーン氏が第五福竜丸をテーマに描いたラッキードラゴンシリーズを中心に、アメリカ生まれで日本語で詩を書くアーサー・ビナード氏が物語として構成し言葉を添え、絵本として昨年発表したもの。新聞の書評か何かで見て気になって、手にとってみたらこれが大変な本だった。

webでは表紙画像しか見る事ができないが、本の帯にはこんな言葉が書かれている。

この物語が忘れられるのを
じっと待っている
人たちがいる。

この言葉の意味するところの恐ろしさ。この本が単に悲劇を訴える物語ではなく、強い悲しみを伴った怒りに満ちた叫びであり人間としての訴えであることの表れ。第五福竜丸の名前はなんとなく聞いた事があったかなという程度の認識しかなかったのだが、この本を読んで改めてその事実に愕然とし、この船が今は東京・新木場の展示館にあると知ってどうしても行ってみたくなった。

1954年3月1日、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行った。この実験での爆発力は広島・長崎に落とされた原爆の1000倍以上とも言われている。その時、木造マグロ漁船の第五福竜丸は23人の乗組員を乗せてアメリカが設定した“危険区域”の外で操業していた。突然空が明るく輝き、水平線から火の玉が浮かぶのが見えた。それから数時間後、白い灰のような物が雲に覆われた空から落ちてきて船に降り積もり、乗組員の体や衣服に付着した。やがて、体に異変が起き始める。白い灰が付着したところは火傷の状態になり、嘔吐・頭痛などの症状が出てきた。乗組員達は自分達の遭遇した事がとんでもない事であると察知し、無線が傍受されアメリカに攻撃されるのをおそれて一切の交信を断ち、そのまま全速力で日本に向かい3月14日に母港の焼津に帰り着いた。乗組員全員が放射能病と診断され、半年後には一番の年長者(被曝当時39歳)だった無線長の久保山愛吉さんが亡くなった。奥さんと、3人の娘さんと、原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしいという言葉を残して。

その後、第五福竜丸は紆余曲折を経て東京のゴミ埋め立て地である“夢の島”に放置されていたが、有志の力と熱意により保存される事となった(新木場って“夢の島”だったんですね)。展示館は入場無料で、船体とその付属品・死の灰・ガイガーカウンター・航海図・当時の報道資料・久保山愛吉さんへの励ましの手紙・この実験で同じく被害を被ったマーシャル諸島の人々の様子・この実験をきっかけに発表された「ラッセル・アインシュタイン宣言(参考:ラッセル=アインシュタイン宣言 - Wikipedia)」などが展示されている。

展示館の階段を上り、全長28メートル余りの船体を見渡した。この船の上に死の灰が降り積もり、この船の上で乗組員達が被曝による苦しみに晒され、2週間もの航海に耐え日本に戻ってきた事を思うと身震いがし、涙が出た。

現在、この事件から50年以上が経ち、世界の核実験数は2000を超えている。

アメリカは第五福竜丸について法的責任を認めていない。

そして今、日本の中に、核武装論を唱える人が出てきている。

この物語が忘れられるのを
じっと待っている
人たちがいる。

忘れてはいけない。そのためには知らなければいけない。目を背けてはいけない。

bk1売り上げ報告

先月の売り上げのご報告です。

ご利用ありがとうございます。

2007年3月11日(日曜日)

ありゃ。投稿雑誌「抒情文芸」第122号の俳句本欄に載ってしまった。

手元に届いて(定期購読しているので)、詩のところだけざっと見て今回も選外佳作だったのを確認してそのままにしてあったのだが、今、頭からゆっくり眺めようと手に取ったら目次の俳句のところに自分の名前があって凄くびっくりした。

この雑誌の投稿は、短歌と俳句は本欄・入選・佳作・選外佳作、小説と詩は本欄・入選・選外佳作となっていて、いずれも選外佳作の場合は投稿者の名前だけが掲載され作品は載らない。これまで詩で入選したことはあったが本欄に載ったのは初めてだ。俳句の投稿は二度目か三度目で前号は選外佳作だったのだがいきなり本欄に載るとは思わなかった。投稿した事すら忘れていたので尚更びっくりだ。

この雑誌にはそれぞれの部門に常連さんがいて、詩と短歌と俳句は並行して投稿を続ける人が多い。この三つは似て非なるものだと思っているのだが、常連さんはどの部門でもある程度のレベルを保ち続けているのが凄い。まさに継続は力なりである。入選すれば講評が頂ける場合もあるし、他の作品に対する講評を読むだけでも勉強になる。やみくもに書き続けるより、何らかの評価があった方が質の向上にもなるだろうし。

詩作については明らかに力量不足・勉強不足であるので、もう少し、自分自身の在り方を含めて見直さないといけないところにあるような気がする。

2007年3月24日(土曜日)

高橋世織編著「映画と写真は都市をどう描いたか」(Amazonビーケーワン)に寄せられた吉増さんの写真と文章を読んでいるうちに涙が出てきた(この高橋さんという方は幸宏さんのいとこなのだそうだ。びっくり)。

思い起こされたのは子供の頃の自分、何の役にも立たなくて夢も希望もことごとく打ち砕かれて自分には何の価値もないと思いながら過ごしていた頃。何の力もなく、ただ周りが変化するままに流されるしかなかった日々。それが、文章表現によって初めて人に評価された事に何とも言えないよろこびを覚え、小学校の卒業式の口上の一番長いセリフを割り当てられた時、担任ではなかった先生が「真理子は通る声だから」と言ってくれた事で自分を見てくれていた人がいる事を知り、「こんな自分でも少しはいいところがあるのかも知れない」と思え出した頃。

その頃の(今でも変わらない)果てしなく孤独な思いと目に映っていた光景が色々とフラッシュバックしてきて、ただ泣く事しかできない自分は今も無力だ。

自家中毒・自律神経失調症・登校拒否・そして母の死から今に至る抑うつ状態と、これら一連の精神神経的な自分の傾向は専ら母方の血によるものだとばかり思っていたが(妄想・被害妄想・分裂症・ノイローゼなど精神疾患のデパートのような家系)、実父までもがまともではなかった事を最近知り(母は生前、実父の事については殆ど話さなかった)、このどうにもならない性分はなるべくしてなったものかとある種納得しつつ、今日42歳になった。

母が42歳だった頃、自分はいくつだったろうかと数えてみたら18歳。そういえば養父が胃ガンで亡くなったのが自分が17歳の時で母は41歳だった。葬式だの埋葬だの一通りの事が済んで、二人で酒を飲みながら(小学校にあがる前から酒を飲むのは日常化していてそれが普通の事だと思っていた)「これからどうしようかねえ」などと呟きあっていた時に戯れに母が書いた「プリーツの襞が泣いてる娘のヒップ」という一文を「プリーツと襞が重複するから“スカートの襞”に変えよう」とネタ元の自分が添削し、四十一というペンネームで「詩とメルヘン」という雑誌の「ほんの三行詩」というコーナーに投稿したので41という数字はよく覚えている。それが掲載され、横に添えられたやなせたかしさんのイラストが当時の自分にあまりにもそっくりだったので親戚ぐるみで大笑いしたものだ。

養父の勤め先の社長さんが非常にいい方で(地方で支店長を務めていた養父を本部に登用した事で養父の病気を悪化させたという思いがあったのかも知れない)、即刻母をパートで採用してくれ、色々と心を砕いて下さった。

当時、妹が7歳で弟が4歳。母は少々エキセントリックで天然ボケなところがあったが概して前向きで聡明な人であったので、母子家庭になってもうちは明るかった。それでも、41歳で3人の子供と自分の母親を養って生きていかなければならなくなった母の苦労はいかばかりであったか、最早本人の口からは知る由もないが、子供の前では弱音も泣き言も決して言う事はなかった、シラフの時は。酒にはめっぽう強いのだが絡み酒の傾向があり、一度愚痴を言い出すと何度も何度も同じ事を繰り返し、酒が切れると雨だろうと吹雪だろうとわたしら子供に買いに行かせた。祖母は一応止めるように言うのだが結局は許した。大酒呑みではなかったが、この人もまた酒好きではあったのだ。その祖母ももういない。

*

などと少々感傷的になっているところに「新装版・覚悟のススメ1」(Amazonビーケーワン)を投入。あー面白い。久しぶりに読んだけどやっぱいいねえ、覚悟は。揺れるな俺の心。くー。バケモノがちょっとクローネンバーグっぽく見える。

今回のは単なる新装版ではない。週刊少年チャンピオン連載時(平成6年連載開始)に巻末ページに載っていた作家コメントが全100回分掲載されるのである。これがもう熱いやらわけわかんないやらで。

愛を込めて、力の限り()く!
それは私とスタッフが、星空とかわした約束!

罪を重ねて進む人生。
あやまっているヒマがあったら、道ばたのゴミを拾おう!

シャンプーとバスマジックリンを間違えた。
ハゲよ! オレはうろたえぬ。

「いそがしい! いそがしい!」とさわいでいる人間の志は、
おどろくほど低い。

何度言えば分かる。おっぱいの大きい女が、
やさしいわけではないのだ。

本物のQちゃんなら、ごはんを20杯おかわりできるハズだ!
正体をあらわせ! 20面相。

何も悪いコトはしていないのに、
悪口を言われるようになった君はもう、大物だ!

使い古された物語でもいいんだ、
そこに魂がこもっているならば! がんばれ! 自分!

よく見きわめるんだ。やさしくされているのか、
それとも、バカにされているだけなのか。

素晴らしい。

*

今月の1日付けで会社に復職した。

1月の下旬から慣らしを始めて、2月中には復職できるだろうというこちらの目論見は見事にかき消された。休職を始めたのが2年前の3月1日で、職務規程上、半年の長期欠勤の後、1年6ヶ月をもって休職期間が満了となるため、それを避けるべく昨年の内に復職可能の診断書を主治医に貰って早めの復帰を望んでいたのだが、手続きのひとつひとつがことごとく先送りにされ、結果、「これで1年6ヶ月の休職期間が満了となりますから、同じ病気での休職は認められない事になります」ときた。産業医も上司も人事も、とにかくとっとと辞めて欲しくて仕方がないらしい。

会社はと言えば、2年も休んでいたのが嘘のように悪い意味で何も変わっておらず、上司の愚痴の内容までもが2年前3年前と同じだったのには苦笑するどころか哀れみの気持ちすら沸いた。社内の各システムは相変わらず何の連携もとれておらず、そういった事への失望を率直に口にしたところ、「だめだと思ったらこの会社を見限っていいですよ、退職するというのも選択肢のひとつですし、それを選ぶのはあなたの自由です」と産業医が言い放ったのには非常に驚いたが、要するにろくな技能もない40過ぎの女などこの先使い道がないから早く辞めてくれた方が会社にとっては楽な事なのだと気付けば、もうどうでもよくなった。どうりで復職が正式に決まる前、上司が繰り返し「また同じように会社に来られなくなったらどうするつもりだ」と何度も何度も言うわけだ。

それでも「はいそうですか」と言って辞めるわけにはいかない。どこの国の景気が回復しているのかは知らんが、今のままでは現在の収入を維持できるような再就職先はない。そういう消極的な理由でしがみつかれては会社もたまったもんじゃないだろうが、雇用契約に基づいてやるだけの事はやるのだからギブアンドテイクだ。どのみち、いまいる部署からは追い出される事にはなるだろうが、不当解雇でもされない限りはなんでもやるしかない。

そんな状況なもんだから、今すぐ死んでももうどうってこたあないなと思うのだが、自分で片付けなければならない事がまだ若干あるのでそれまではと思う。以前は、死んでもあの墓にだけは入りたくないとか色々考えていたが、もうそういうのもどうでもよくなってきた。養父が亡くなった時も母の時も、寺だの墓だのの手続きやら何やらにハラワタが煮えくり返るような思いをしてきたが、そんなのももうどうとでもなれだ。後の事は生きてる人たちがいいように勝手にやってくれ。かくして悪習は繰り返される。それを断ち切るために費やす気力も時間も金も何もかもが今は無駄に思える。

*

こんな事ばかり考えていても健康状態は至って良好で、強いて言えば会社に通うようになった途端にお通じがぴたりと止まった事くらいだ(産業医に「お通じが悪くなりました」と言ったら「下痢ですか便秘ですか」と聞かれて驚いた。腹を下してる時に「通じが悪い」なんて言わないだろ普通)。それが週末の休みになると待ってましたとばかりにところ構わず(家でも外出先でもという事)どっかんどっかん出てくるので、つくづく体は正直なのだと思った。

先日、ちょうど1年ぶりに人間ドックに行ってきたのだが、体重が20キログラム減っていたので大層驚かれ血液検査の項目を増やされたりしたが、1年で20キロということは平均すれば1ヶ月に2キロも落ちていないわけで、そんなに大変な事じゃないんだけどなあと本人は至って呑気である。困るのは手持ちの服のサイズが合わなくなってしまった事くらいで、がふがふのズボンをベルトで締めてなんとかしのいでいる。

今回のドックで一番驚いた事と言えば検査着である。受け付けを済ませ更衣室に入り、割り当てられたロッカーを開けてさあ着替えようと思ったら検査着がない。ロッカーの中に入ってるんじゃなかったっけ、と思ったのだが、ふと見ると壁際の棚に検査着が山ほど積まれていて、そこから各自が勝手に持っていくシステムになっているのだった。そうだ。去年までは受け付けで「…Lですね」と大きいサイズの検査着を手渡されていたのだが、今回はそれがなかったのだ。棚に並んでいるのは全て普通サイズの検査着。

その事に気付くまで少々時間がかかった(ような気がした)が、すぐに「一般人の目から見てビッグサイズに見えないくらい自分は痩せたのか」というのと「とはいえ果たして普通サイズの検査着が着られるのか」という2点が頭の中でぐるぐる回り出した。これで実は着られませんでしたという事になったらどれだけショックを受ける事か。今までに感じたことのない妙な緊張感の中、恐る恐る普通サイズを身に着けてみる。…入った。動いてもしゃがんでも破れない。これで晴れて珍獣卒業の第一歩を踏み出したよママン。

会社でも会う人ごとに「痩せました、よね?」と言われるし、毎日通勤するようになってますますサイズダウンしてしまったし(おかげでまたベルトに穴を空けなければならなくなった)、体重も微妙ではあるがまだ減り続けている。主治医は「いい事です」と言ってくれるが、ドックの内科では「でも女性はねー、どんなに努力していろんな数値を正常にしても閉経しちゃったらぜーんぶリセットされちゃうからねー、知らないの?」と、若い時にいくら努力してもムダだよんとでも言いたげな様子で一蹴された。こっちが蹴ってやりたいわ、くそ。こういう奴がのうのうと医者でいられるのかと思うと腹が立つが、医者に限らずどんな場面にも「なんだこいつ」という奴はいる。それにいちいち立腹していたのでは精神衛生上よろしくないのでとっとと忘れてしまうのがよろしい。

*

通勤するようになって本が読めるようになった。家にいれば時間はいくらでもとれるが、なにもしないでいる事もできてしまうので実際には休職中に読んだ本はそう多くない。それが、通勤する電車の中では本を読むしかない。最初は新聞を読もうと思ったが、混んだ電車の中で新聞を読むにはかなりのスキルが要る。ページをめくる度にバサバサのガサガサのゴショゴショになってしまい、にっちもさっちもいかない。あれをスマートにこなせるのには相当なコツが必要だ(単に自分が不器用なのかも知れんが)。それに、メモを取りながら新聞を読むのが癖になってしまったのでそれができないのももどかしくて、新聞は諦めて文庫本や新書本を読む事にした。スワンタッチという心強い味方も見つけたし。

それでもやはり読んでいれば気になる部分が出てくるので、そういうのは携帯電話にメモしておいて、読み終えた時にまとめてパソコンのメールアドレスに送信するようにしている。ささやかなLife Hack。

そんな感じのここ最近である。

2007年3月29日(木曜日)

島尾ミホさんが亡くなった。

373news.com - 県内ニュース

作家、島尾敏雄夫人 島尾ミホさん死去

(03/28 14:28)

 作家・故島尾敏雄氏の妻で、作家の島尾ミホ(しまお・みほ)さんが奄美市名瀬浦上町47−11の自宅で亡くなっていたことが分かった。87歳。死因は脳内出血とみられる。瀬戸内町出身。葬儀・告別式は29日午後1時、同市名瀬幸町18−1、カトリック名瀬聖心(みこころ)教会で。喪主は長男、伸三(しんぞう)さん。

 ミホさんは1人暮らしで、27日昼に自宅を訪れた孫で漫画家のしまおまほさんが、自室に倒れていたのを発見したという。ミホさんは昨年から体調不良を訴え、外出することも少なくなっていた。奄美署によると、25日に亡くなったとみられる。

 加計呂麻島の押角集落に育ったミホさんは、終戦間際に海軍の特攻隊震洋艇の隊長として同島に赴任した敏雄氏と恋に落ち、戦後結婚した。敏雄氏は当時の2人の体験をもとに「出発は遂に訪れず」「島の果て」などの名作を生み出した。その後、夫妻は神戸、東京、鹿児島と転居。その間に精神を患ったミホさんとの夫婦の葛藤(かっとう)を描いた「死の棘」は芸術選奨を受賞(1960年)、映画化もされた。

 ミホさんは敏雄氏とともに奄美で合わせて20年間暮らし、病気治癒後は自身も執筆活動を始めた。文芸誌「カンナ」の同人となって第3回(75年)南日本文学賞を随筆「海辺の生と死」で受賞するなど高い評価を受けた。86年に敏雄氏が鹿児島市で亡くなった後は、再び奄美に転居。氏の日記や自筆原稿などを整理しながら、雑誌に寄稿するなどしていた。

■島尾文学守った

 鹿児島国際大学非常勤講師で島尾ミホさんと親しかった前橋松造さん(75)=鹿児島市=の話 島尾敏雄先生が亡くなってから、ずっとその遺品や家を守り続け、島尾文学について奄美から発信してこられた。その功績は大きい。本当に惜しい方を亡くした。

■残念で言葉もない

 島尾夫妻と長年の親交を結んでいた詩人の藤井令一さん(76)=奄美市=の話 1人住まいで大変心配していた。時々、電話をかけて話していたんだが…。残念で言葉もない。

島尾ミホさんが死去 小説「死の棘」のモデル [CHUNICHI WEB PRESS]

 作家の故島尾敏雄氏の妻で、同氏の小説「死の棘」のモデルになった作家の島尾ミホさんが25日午後10時ごろ(推定)、脳内出血のため鹿児島県奄美市名瀬浦上町の自宅で死去した。87歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式は29日午後1時から奄美市名瀬幸町、カトリック名瀬聖心(みこころ)教会で。喪主は長男で写真家の伸三氏。

 鹿児島県・加計呂麻島で教員をしていた1944年、海軍特攻隊長として島に駐屯した敏雄氏と出会い、戦後結婚。一男一女をもうけた。島で過ごした少女時代の記憶をつづった「海辺の生と死」で田村俊子賞などを受賞。敏雄氏の代表作「死の棘」には、夫の浮気が原因で心を病んだ妻の姿を通して、家族の深いきずなが描かれた。

 86年11月に敏雄氏が死去した後も喪に服し続け、2002年8月に長女マヤさんを亡くしてからは1人暮らしだった。

(共同)

(2007年03月28日 17時53分)

時事ドットコム:島尾ミホさん死去=「死の棘」のモデル

2007/03/28-19:31 島尾ミホさん死去=「死の棘」のモデル

 作家の故島尾敏雄氏の妻で、代表作「死の棘(とげ)」のモデルとなった島尾ミホ(しまお・みほ)さんが25日午後10時ごろ、脳内出血のため鹿児島県奄美市名瀬浦上町47の11の自宅で死去した。87歳だった。鹿児島県出身。葬儀は29日午後1時から奄美市名瀬幸町18の1のカトリック名瀬聖心(みこころ)教会で。喪主は長男伸三(しんぞう)氏。

 太平洋戦争末期、鹿児島県加計呂麻島で小学校の教師をしていたミホさんは、海軍の特攻隊指揮官として赴任してきた敏雄氏と出会い、戦後、結婚した。

 1960年、敏雄氏が発表した「死の棘」は夫の情事に煩悶(はんもん)する妻の壮絶な姿を描き、ベストセラーとなった。ミホさん自身も作家として活躍、「海辺の生と死」で田村俊子賞を受賞した。(了)

鹿児島県瀬戸内町出身。加計呂麻島(かけろまじま)

ZAKZAK

「死の棘」モデル・島尾ミホ死去…故島尾敏雄氏の妻

 作家の故島尾敏雄氏の妻で、同氏の代表小説『死の棘』のモデルになった作家の島尾ミホさんが25日夜、脳内出血のため鹿児島県奄美市の自宅で死去した。87歳。

 ミホさんは、鹿児島県奄美大島の加計呂麻島出身。著作に『海辺の生と死』『祭り裏』などがある。映画「ドルチェ−優しく」(2000年)にも出演した。

 敏雄氏の小説『死の棘』では、心因性の精神症状に悩まされる妻との生活が赤裸々に描かれ話題を呼んだ。小栗康平監督により映画化されて、カンヌ映画祭にも出品された。孫のしまおまほ氏は「女子高生ゴリコ」などで知られる人気漫画家。

ZAKZAK 2007/03/28

KTSニュース || KTS鹿児島テレビ放送

島尾ミホさん告別式 :: 3月29日(木)15時58分

 作家島尾敏雄さんの夫人で小説「死の棘」のモデルとなったことでも知られる島尾ミホさんの告別式が29日、奄美市でとり行われおよそ200人が最後の別れを惜しみました。

 島尾ミホさんは、瀬戸内町の加計呂麻島出身で、第2次世界大戦中、海軍の特攻隊長として赴任してきた島尾敏雄さんと出会いました。

 島尾さんは終戦後、文壇にデビューしますがミホさん自身も創作活動をはじめ「海辺の生と死」で南日本文学賞などを受賞しています。

 奄美市のカトリック教会で行われた告別式には、島尾敏雄さんやミホさんと親交のあった人や、島尾敏雄研究会のメンバーなど、およそ200人が参列し、讃美歌が流れる中、白い菊の花を捧げミホさんとの別れを惜しんでいました。

謹んでお悔やみ申し上げます。

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