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slip into chaos - 日々録(2012年6月)

2012年6月3日(日曜日)

例の件ですが、オイラの周りでは激しく動揺っていうか困惑っていうか放心っていうか。「いっそホモとか二次元の方がまし」わかります。「あっちゃんの方がおかしいと思っていたけど今井の方が根が深い」同感です。

つーかね、腐女子ビューでもなんでもない人はどういうふうに受け取るんでしょうかねこれ。ふーんで済むんですかね。スルーですかね。でもただでさえあんな歌詞なのに。そりゃ聞けばそれなりの答えは返って来るんだろうけどあくまでそれなりだよね、疾風のときだってロータスについては流されちゃったし(あれは聞き手が足りてなかったと思うけど)。今回も表向きの理由だけで終わっちゃうんだろうか…まあいい、勝手に悶々とさせて貰うさ。うううう。

それは置いとくとしても(全然置いとけないんだけど)この曲凄いよな。曲から立ち上る香気にあてられて息ができなくなる。今井は時々容赦なくこういう曲を出してきますね。何試しなんだ。たぶん昔っから変わってないんだろうなあ。こういうぶれのなさが凄いなあ。

ちょうど読み返してたつげ義春さんの「ねじ式」の文庫版あとがきに佐野史郎さんのこんな文章がありましてね。

ゆるやかな世界、あるいは張りつめた世界、どちらかだけのはっきりとしたわかりやすい世界。そこでは自分のしていることはよくわかるし、確認もしやすい。けれどもわかりやすい世界なんて、そんなものが本当にあるのだろうか。

(中略)

もし一つの価値観に統一していかなければならないとしたら、結局はファシズムにまで走らざるを得ないだろう。僕にももちろん、制約や規律にあこがれるところがある。つげさんにそれがないかと言えば、そんなことはないわけで、ものすごく規律を作りながら同時にゆるやかにいるという、両者が併存しているところがよいのである。一つの方法がだめだったから、すぐその反対側の方法が絶対に正しいと言い出す、ということを歴史は相変わらず繰り返している。それをなぜ、ゆるやかに張りつめていられないのか。

つげさんや水木さんの作品では、そういう世界がすでに現在、堂々と提示されている。開き直りでなく、自分に見えていること、感じていること、これでよいのだと思っていることを、ごまかさないで出している。そういう人達は不滅の存在なのだと思う。

バクチクってそんな感じなのかも。

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