わたしは筋肉少女帯が好きでした。「月光蟲」のときの武道館が初めてのライブで、なんて楽しいんだろう、なんて凄いんだろうとすっかりファンになりました。それから大槻ケンヂさんは詩集を出し小説を書きテレビに出る様になり「ちょっと面白いミュージシャン」として世に知られるようになっていきましたが、筋少としての活動もいいペースで続いていたし、ソロアルバム「ONLY YOU」を出した時には、自分の手の内をさらけ出すなんてなかなかいさぎよい人だなあと好感を持っていました。
が、時間が経つにつれ曲にのめり込む事ができなくなり、「お前達の心の隙間を埋める事が出来るのは筋肉少女帯だけだ」「筋肉少女帯の素晴らしさを世に広めよ」などのMCに違和感を覚える様になっていました。
1998年7月31日の渋谷公会堂でそれは決定的なものになりました。ライブの構成について悩んでいた大槻さんに内田さんが言ったという言葉、”最後に「釈迦」やれば盛り上がるよ”、これを聞いた時に、もう筋少は聞けないな、と思いました。
その後太田さんが脱退し筋少は活動停止。99年に入って橘高さん大槻さんが相次いで脱退を発表し空中分解。筋肉少女帯は活動を凍結しました。
そして、大槻さんが特撮というバンドを立ち上げる、更に内田さんや三柴さんが参加すると聞いた時は一体どんなすごいことになるのかとものすごく期待していました。
シングル「アベルカイン」にはあまりぴんとこなかったので、アルバム「爆誕」にも手が出ないままの今回のロフト。1月のライブでは筋少の曲もやったらしい、と聞いてはいたし、ある種の覚悟も出来ていたのですが。
開演前にスクリーンに映っていたのは「シド&ナンシー」の映像でしょうか。そこへ登場した大槻さんはニットキャップにボアフード付きジャケットという姿。MCではしきりに売り上げの事を気にしながらパンクという言葉を連発。なんだかなあ、と思いながらも聞いていたのですが、中盤の「マリリン・マラソン」で、え?という感じ。そこへ「日本の米」「マタンゴ」と筋少時代の曲。そして極めつけ「サンフランシスコ」。わたしはこの曲が好きで、ライブではそれこそ声が枯れるほど歌いながら飛び跳ねていました。三柴さんのピアノでこの曲が聞きたかったものだと思いながら。それが、筋少が凍結した今、どうして特撮のライブで聞かされてしまうのか。涙が出ました。
わたしは筋肉少女帯が好きでした。もう特撮のライブには行きません。
(2000.03.04)